2016年1月号
ウエルビーコラム 2016年1月号
なぜ「包括」なのか
手段と目的を取り違えるな
あけましておめでとうございます。
新しい年が みなさまにとって素晴らしい1年であることをお祈りしています。
宇宙飛行士で日本科学未来館館長の毛利 衛さんが 日本経済新聞の「リーダーの本棚」(2016年1月3日付)で 『生存の条件』 (旭硝子財団編著)を座右の書として挙げていました。
同書のおおまかな主張は
「自然の回復力を損なわないような活力溢れる人間社会を創っていくには 自然の理に逆らわない(自然の制約の中で)活動をしなければならないが 人間関係や社会においても 相互に対立し競争するのではなく 相手の立場を尊重し 自然を含む他者に対する『思いやり』をもってお互いに協調していくことが重要である」
というものです。
昨年の11月号のコラム で取り上げた「SDGs:Sustainable Development Goals」(持続可能な発展目標)と共通したビジョンです。
社会保障やヘルスケアの分野でいう「地域包括ケア」という言葉の「わかりにくさ」の原因のひとつが「包括」という単語にあります。
「医療と介護そして生活までを包括的に結ぶ」
あるいは「高齢者だけでなくすべての人々を包括的に対象とする」
と説明はできます。
しかし「包括」という言葉が生まれた背景には
「一方が他方を支える」という一方的な関係や
「ひとつの原因がひとつの結果に結びつく」という単純な因果関係
そして「YesかNo・これかあれしかない」二分法や二元論
では 潜在的か顕在的かは別にして (これからの)人間や社会は成り立っていかないという認識が 私たちに浸透していることがあるのではないでしょうか。
私たちの幸せを実現するための「手段」であった科学や社会システムそして医療や介護が 測定が困難だからという理由で「定量的でないもの・算定できないものは捨象する」という誤りに陥っていることを 多くの人々が気づき始めているのでしょう。
毛利さんは「人類に残され時間は長くありません。国や組織だけでなかく個人として何ができるか考えてほしい」と語っています。
To exist is to change,
to change is to mature,
to mature is to go on creating oneself endlessly.
― Henri L. Bergson
株式会社ウエルビー
代表取締役 青木正人